始まりの言葉

サイトを引っ越しました。
前のサイトもそれなりにこだわって作ったんだけど、実は前のサイトを作った時は、人の勧めというのが強い理由としてあったので、今思えば「作らなきゃな」という気持ちが強く、なんとなく自分にとって居心地の良い場所ではなかった。

個人的な話ではあるけど、丁度それくらいの時期、かれこれ7年くらいまえから、自分としてのあり方を揺さぶられる出来事が定期的にやってきていて、行きつ戻りつ自分の在り方というのを考えていたのだけど、それがここ最近で急に収束してきた感じがあって。

もちろん人生の旅路は続くから、これが最終形態だというつもりはないけれど、「なんであれ自分は自分なのだ。それがどう変わろうとも」という当たり前の事に気づいて、開き直ったというのとはまた違うんだけど、「なにかであろう」と頑張ることはしなくてもいいなと思えてきた。それはたとえば、こう見られたいからこう振る舞う、みたいな自分をブランディングする事だったり、なにかの価値を生みだそうと言って恍惚感のためになにかをするだとか、だれかを助けることで自分の価値を感じたりだとか、そういうこと。なんとなくそういうことから自分を遠ざけたくなった。

なにかをきっかけに、がらっと人柄が変わるということはないし、自分が変わる事を他の何かに期待するというのもなにか違う気がして、心機一転という言葉はあまり好きではなかったけど、創造の前の破壊という言葉もあるし、昔のちょっと濁ったエネルギーはすっぱりと切り捨てて、新しくただ自分であるという新鮮な場所にしたい気持ちは動機としては割と大きかった気がする。
失恋した女の子が髪を切る。みたいな?
おっと、こういうの最近、理解されない上にセクハラになったりするらしいですね。怖い。

そういうの、気分を切り替えるための儀式としてはとても理解できるし、髪と言うのは伸びるのに時間がかかるから、それだけ思いがのりやすいと思うので、それを切るという行為は実際に気分を換える効果もあると思うけど、それは別として、怖いというのは自分が知らないうちに他の誰かを深く傷つけている可能性がある。という事です。

人は言葉を発するけど、言葉が人を作っていくのもまた事実なので、そういう事にも気をつけていきたいと思うけども、気にしすぎると何も出来なくなるだけなので、それさえもC’est La Vieと笑って受け流すしかないだろう。

人に優しくするのもそうだけど、相手がそれをどう受け止めるかは、最終的に人に制御できることではなくて、なにがおきてもC’est La Vieと受け止めるしかないとは思う。

つまり、ここは新しくて自分がどんな言葉を使っていく「場」なのかまだ決まっていないので、その時その時で統一感のない変な感じになっちゃうかもしれないけど、まああんまり、自分で自分を縛ったりしないように、それも自分さと笑って言えるような、そんな自由な空間になるといいなと思っています。

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